常光院(埼玉県)

長承元年(1132)藤原鎌足十六代目の子孫である判官藤原常光公が、武蔵国司に任ぜられて下向し、当地に公文所を建て、土地の豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着、館を構えて政務に精励したが、保延3年(1137)5月1日病没された。遺骸は館の東に葬られ近年まで常光塚(権現山古墳)として残っていた。
常光公の孫の中條出羽守藤次家長公は、16歳にて石橋山の合戦には既に頼朝公に扈従していて信任が厚く、関東武士では唯一人貞永式目制定に参画し、評定衆(現在の閣僚)として鎌倉に住んだため、自分の中條館を寺とし、五町余歩の土地を維持費として付し、祖父常光公及び殉死した愛童の菩提を弔うため、比叡山から天台の名僧金海法印を迎えて、建久3年(1192)開基したのが龍智山毘慮遮那寺常光院である。

 参拝日 2021年12月10日
 本堂は茅葺で、熊谷市の指定有形文化財となっている。
 

指定有形文化財の説明

常光院成り立ちの説明

入口の門

門の拡大

入り口通路の紅葉

茅葺の本堂